essay index
◆大学時代・同人誌「アンニュイぽんち」創刊号◆
社会貢献という名のエゴイズム
〜はじめに〜
僕は、大学に入学した当初(軽薄にも)自分の人生の目標は、なんらかのかたちで社会に対して貢献をすることであろうと考えていた。なぜか?社会貢献というものは、ヨイものであり、ヨイことをすることで自己のアイデンティティーを見いだそうとしたからにほかならない。社会的にヨイこと即ち<社会的善>さえやっていれば、自分に疑問を持つこともなく、充実した人生を送ることができるであろうという短絡的な発想の結果である。
本論は、こうした認識を持つことで自己を肯定し、かつ社会的に自己の立場を相対優位に置こうとした自分自身の内面に対する自己批判である。しかし同時に、(こうした認識を持っていた時の)僕と同様あるいは、似通った考え方をしちえる他の人に対する{批判}でもある。(ただしここでいう他人に対する批判というのは、自分の価値観を一般化し、他者に押しつけるための批判ではない。その逆に他者によって社会貢献が、善であるという価値観を押しつけられることに抵抗するための{批判}である。)
〜社会貢献とはなにか〜
まずここで使用される「社会貢献」という言葉の意味について、説明する必要があるであろう。なぜなら、この言葉のもつ意味が、一般的用法とあまりにもかけ離れているならばその後に展開される{批判}が、全く的外れの無意味なものとなってしまいかねないからだ。
では、社会貢献とはなにか?一言でいえば「世のため人のために力をつくすこと」となるのではないだろうか。そこでさらに問うことにする。<世のため人のためになること>とはどういうことをさすのだろうか?この問いに対する一般的見解を示すことは反論もあろうが、あえて最大公約数を取ればこのようになるのではないか。「自由、平等、博愛、平和、正義、をより多くの人が、より多く享受できるようにすること。」とすると社会貢献というのは、「自由、平等、博愛、平和、正義をより多くの人が、より多く享受できるようになることに自分が、(時には多少の自己犠牲を払いつ、)なんらかの活動を通じて力をつくすこと」となろう。こうした説明に多少の疑問を感じる人はいるであろうが、ここに書いてあることを完全に実行することのみを社会貢献というというせまい意味にしなければ、大筋においては、ここまではあまり疑問の余地はないだろう。最初の問題は、「こうした社会貢献は、ヨイこと(社会的善)である。」というロジックが、ほとんど疑われることなく用いられるという点にある。
さらに奇妙なロジックは続く。「社会的善である社会貢献をするということは、ヨイことなのだから、ヨイことをしている自分は、社会貢献をしようとしているという点において、そうでない人よりも善である」転じて「みんな社会貢献をするべきである。(そうすれば世の中みんなヨイ人になるので世の中うまくいくであろう)」という議論にたどりついたころには、すでに立派な盲目的啓蒙主義者の完成である。
こうやって論理をひとつずつときほぐしていくと、自然となにか奇妙なものを感じるものだが、実際我々の実生活の中では、こうした論理は、暗黙のものとして検討の対象になrない。むしろ焦点は、この先になる。つまり「どんな社会貢献をするか」という点で議論がおこなわれ、空き缶回収から政治改革にいたるまでじつに様々な批判、検討、提案等が、おこなわれることになる。ここから先は人によって相違あるが、ここでまた一般的な例を挙げるならば、ボランティア活動に参加したり、政治家になろうとしたり、国連で働こうとしたり、(人によっては)革命を計画したりするわけである。僕は、今回の議論では、どうすれば、一番うまく社会貢献が可能となるかということについて検討するつもりは全くない。その点に関しては、一生読んでも読みきれないほどの書物が、お偉い人々によって書かれている。まったくお偉くない私は、それ以前に暗黙の前提となっている「社会貢献は、ヨイことだ」という短絡的な肯定に批判の焦点をあてたいのである。
〜「ヨイこと」とはなにか〜
「社会貢献は、本当にヨイことなのか」という検討も当然おこなわなければならないが、それ以前に無批判に<社会的善>が規定され、かつ肯定される点の検討をしなければなるまい。しかしながらこの点について綿密に検討することは、至難のわざである。いや、むしろ至難のわざであるということが、重要となる。世の中に本当に善、悪というものは、客観的に存在するのか?客観的に存在するならば、それを人間が知ることはできるのか?客観的なものではないのなら我々は、何を基準にして(指標にして)善と悪の判断をするのか?個人の主観なのか?社会の(共同体の)習慣ないしは通念によるのか?神のお告げによるのか?多数決によるのか?憲法によるのか?判例によるのか?
こうした問題について私が、ほんの数枚のこの投稿文によって包括的な結論づけをおこなうのは、あまりにも絶望的である。が、しかし部分的に読者の(そして私自身の)容認を得られることもあると思われる。それは、善や悪が、何をさすのかという点に関しては時代、地域、立場などによってじつに多くの見解があり、時空を越えて絶対的な善と悪を導きだすことは、ほとんど不可能(に近い)ということである。実例を挙げようと思えばいくらでも提示することができる。第2次世界大戦中の日本においては、鬼畜米英、天皇制擁護の立場こそが絶対的善であった。また、人間の生命が、他のなによりも優先されるべきであるという思想が、正しいと判断されるようになった歴史は、ほんの数百年に過ぎないであろう。資本主義の良し悪し、共産主義の良し悪し、「〜教」ないしは、宗教そのものの良し悪しなどは、現在の社会の中でもじつに様々な意見対立がある。これらの諸事実から何がいえるのか?社会的に与えられた善悪の基準は、じつに不明確、不安定なものであり、かつ歴史的な宗教戦争や、イデオロギー闘争などを振り返ると、<社会的善>の肯定は他者を排除ないしは否定、あるいは、他者に押しつける可能性があるという点においては非常に危険であるともいくことができよう。そしてこれはそのまま啓蒙主義の危険ということにもなりうる。
「正しい」即ち<善>であるという確信を持つことは、なかなか人を安心させるものである。なぜなら自分のやっていることが<まちがいない>ならば、人は安心してそこを自己のアイデンティティーのよりどころとすることができるからだ。「ヨイこと」という概念が、人類によってうみだされた理由は、まさにこの点にあるのかもしれない。
〜社会貢献がなぜヨイことなのか〜
前節で私は、我々が、善悪を区別している基準が、人によって時代によって文化によって様々であり、絶対的善悪を示すことがほとんど不可能であろうということ。にもかかわらず我々は、自己のアイデンティティーを確立する容易な手段としてこうした社会的な善悪の基準を利用しがちであることを(不完全ながら)示した。そこでつぎに、こうした善悪の基準の中で「ヨイこと」とされる社会貢献という行為について検討する必要がある。最初に私が示したように社会貢献という言葉を「自由、平等、博愛、平和、正義をより多くの人が、より多く享受できるようにすることに自分が、なんらかの活動を通じて、力をつくすこと」とするならば、なぜこうした行為が、ヨイこととされるのだろうか?答えは意外と簡単である。少しでも過去の歴史を検討すれば、自由、平等、博愛、平和、正義が、<社会的善>として認識されるようになったのは、近代というほんの数百年の歴史と地球上のごく一部の地域でしかないということが同時にわかってくるにもかかわらず、「自由、平等、博愛、平和、正義をより多くの人が、より多く享受できるようになるということを、(少なくとも現代日本人の、そしてもしかしたら、近代人の)大部分の人々が暗黙のうちに容認しているからにほかならない。
ここにふたつの結論がみえてくる。すなわち、我々は、一般に社会貢献というものは、ヨイこと、<社会的善>であると考えているが、これが、絶対的善であるか否かは知るよしもないし、「自由、平等、博愛、平和、正義をより多くの人が、より多く享受できるようにすることに自分が、なんらかの活動を通じて、力をつくすこと」が、(即ち現代的意味における社会貢献が、)社会的善として、認識されるようになって、それほど長い年月がたったわけではないということ。そして、にもかかわらず、我々は、自分たちの共有する社会的善の価値観をかなりの程度絶対的なもの、ないしは、普遍的なものとして、暗黙のうちに肯定しているということである。*予想される反論として、「世の中社会貢献をしようと考えている奴なんかそんなにいやしない。むしろみんな自分の幸福だけを考えているのではないか?」というものがある。だがしかしこれは少々ポイントをはずした反論である。なぜなら、社会貢献をしない人達が多いということと、こうした人達が、社会貢献を<社会的善>として捉えていないということは全く別のことだからだ。また、当然のことながら、自分の幸福だけを考えて生きるひとを社会貢献をしようとしている人よりもヨイということを私が述べようとしているわけでもないということも確認しておきたい。
〜<社会的善>とアイデンティティー〜
ではなぜこんなにも不安定な<社会的善>という概念に立脚した社会貢献というこれまたアヤシゲナ行為が、こんなにも肯定的に受け入れられてしまうのであろうか?私は、まさにこの点に、自律できない自己、その相対優位的快楽、社会的価値観への埋没、そして<善>によって隠蔽されたエゴイズムを感じずにはいられない。
ここから先の議論は、飛躍を極力避けるため、きわめて慎重に進めなければならないのであるが、そのために私は、<善>特に<社会的善>という言葉のもつ圧倒的な説得力について説明しなければならない。とはいえ、、、この点について論理的に説明するのは、これもまた非常に困難である。私には、一般に、私達がある程度直感的に認識している見解について、確認する以上のことをここで展開することはとてもできそうにない。即ち以下のような見解である。「善とは、ヨイことを意味する。そして、ヨイことは、ワルイことよりも、社会的に優位である。」ここでいう<社会的に>とはいかないる意味なのか?これは、「(自分の想定できる範囲における)他者一般によって形成された(と思われる)価値体系内において」ということを意味する。すなわち<社会的優位>の意味するところは、「世間的に認められた(大多数の人によって認められた)価値体系の中で肯定的に(高い価値をもって)認識されていること」を意味するにほかならない。では、こうした認識が、暗黙の前提となっている世界の中で社会貢献が<ヨイこと>として肯定的に受けとめられるということは、何を意味するおんであろうか?又、こうした認識を暗黙のうちに受け入れ、ほとんど疑問の余地なく社会貢献を口にしている人達からいかなる事態が導きだせるであろうか?
明々白々な事実からはじめよう。彼ら社会貢献肯定者は、まず社会によって与えられた価値体系に無条件の絶対的服従の態度をしめすことになる。そしてこの無条件の服従は、絶対的な確信と同義となり、さらに困ったことに、ここでの確信が、個人的なレベルではなく、社会的な価値体系に依拠しているために、社会貢献という行為をすることによって、自己を他者との比較の中で、相対的により高く位置づけることになってしまう(社会貢献をしている私は、していないあいつよりも偉い。)。社会貢献がいかなる種類のものであれ、なかなか立派な行為として、社会的に称賛され、かつ自分自身でもすこし自慢げな気持になるのは、まさにこうした諸事実を暗黙のうちに受け入れているからにほかならない。そしてこうした発想の帰結として、「他の人々も自分のように社会貢献の活動をすべきである。」が用意されている。
私はこうした社会的価値観の内部に自己のアイデンティティーをみいだしてしまう(自己を支える根拠をあたえてしまう)私を含めた大多数の人々を徹底的に批判したい。これは、自律することができない自己がもつエゴイズムを無根拠だが、社会的に容認された、<社会貢献=善>という公式によって隠蔽していることにほかならないのだ。自分自身で、自分の価値体系を造ることができず、いや、つくろうという努力すらせず、既に出来上がった価値観にどっぷりとひたることで自分のよりどころにするという、まさにエゴイズム丸出しの行為が、<社会貢献=善>という公式にあてはめることでエゴイズムの部分が完全に覆い隠されその逆に称賛の対象として受け入れられるというこの事態を容認するだけの広く寛大な心をどうも私は持ちあわせていないらしい。
では、いったいなにがそもそも間違いだったのか?そしてどこからはじめるべきだったのか?これが次なる課題となる。
〜はじまりはどこか?〜
私は(私達は)一体何処までさかのぼらなければならないのだろうか?社会に依存した独善的な自意識から解放されるために何をすべきなのか?この問に対する答えはひとつではないだろう。順応も答えであろうし、死も答えになる資格はある。よってこの先の説明は、極めて主観的なものである(もちろん今までの議論が、絶対的客観性の上に立脚していたものと考えているわけではないが)。だから、痛烈な批判は当然想像できるし、甘んじてそれをうける用意もあるつもりだ。
はじまりは、自律することにある。自己を見つめることにある。なんのために?社会(ないしは世界)と自分との関係を自分なりに把握するために。なぜ?社会的価値観から自由になるために。そして、独善に陥らないために。
これは一見矛盾に思われるかもしれない。自分勝手に自分を解釈して、自分の眼で社会を見つめることに疑問をもたずにいれば、これこそ独善なのではないか?答えは、NOである。私はこれを独善とは呼ばない。これこそが、自律した自己なのだ。独善とはなにか?独善とは、自分が、善であるということをひとりよがりに思い込むことである。自律は、自己を肯定することではない。文字どおり、自己を律することである。社会的価値観に埋没して、そのなかで、自分をなかなかヨイことをしているイイ奴として認識することを厳しく戒め、軽率な自己肯定をゆるさないことである。<社会的善>という心地よいエゴイズム隠蔽の場のなかで相対的優位の快楽に酔いしれているアイデンティティーをもう一度自分自身の内面の世界へ引きずりだし、「確固とせよ!」と叫ぶことである。そしてこの作業に終わりはない。なぜなら、残念ながら(しかし幸運にも)私達は、社会的価値観、あるいは、文化的背景というものから完全に解放されることはありえないからだ。(唯一狂気のみが、これを可能にするかもしれないが。)だがそのことを悲観することもないであろう。人間は、このことに自分の生きがいをみいだすこともできるからだ。そして生きがいに終わりがあったら、もう生きる意味がなくなってしまう。
ここまできて、こう思う人がいても不思議ではないだろう。「自律するということが、こんなに難しいのなら、別に自律なんかしなくてもいい。今迄ののうが、ずっと楽だったし幸福だった。」と。私は、この見解に対し、全く反駁するつもりはない。ただし、宣言したいことと要求したいことが、ひとつずつある。即ち、「社会的価値観に拘束されているより、自律した自己は、はるかに自由である。そして、自由は、ぼくを幸福に、そして有意味にしている。」という宣言と、「僕は、あなたに、君は間違っている。僕のように自分を見つめる作業をするべきだ!と言うつもりはない。(それはふたたび独善のわなにはまったことになる。)そのかわり、あなたも、自分の確信すなわち<社会貢献はヨイことだ。そして、ヨイことをしないおまえは、ヨイことをしている私に非難されて当然だ。>という私からすれば、まったくわけのわからない無根拠な論理を私に押しつけないでほしい。」という意味である。
さらにつづきはある。すなわち「自律した自己として、(あるいは自律しようともがいている自己として、)いかに社会/世界とかかわっていくのか?いかにして人間関係をつくりあげるのか?」という課題である。だがこれは、本論の課題ではないし、厳密には、別の問題である。この課題について僕なりの検討というものはないわけではないのだが、今ここで述べるのは適してないように思われるので、またの機会にしたい。
〜参考人物〜
本論を書くにあたって直接的に参考にした文献はない。そのかわり、こうした問題について、直接の影響を受けた人物はいる。そうした人のなかで差し障りがない範囲で、ここに紹介したい。もっとも差し障りがないかについて、本人に確認したわけではないし、本人の文脈を曲解した部分も多分にあると思われるのであしからず。
Special thanks to 権田健二、山本啓一、西村慎太郎、楠本哲也、出縄憲二、根本宮美子、加藤哲郎ゼミナールの皆さん、
info@hokariminoru.org
Copyright © Minoru Hokari, All rights reserved.