essay index
◆高校時代・同人誌「パルセウス」第二号 1987.10.12◆
ボランティア反対
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最近ボランティアがはやっている。“はやっている”などと書くといかにも批判的なふんいきになるが実はそうなのである。今回はボランティアのもつ危険な性格について書いてみたいと思う。
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みんな一度は募金に協力したことがあるだろう。二十四時間テレビ愛は地球を救うとか、ユニセフ募金、赤い羽根共同募金など、様々な形で募金をする機会がある。さてそこでみんなに募金箱に十円玉を入れた時の心境を思い出してもらいたい。「ああ僕(私)は優しい人間なんだ」と思った人はいないだろうか。たとえ思わなくても何ともいえない満足感がうまれたのではないだろうか。僕はこの満足感に対し警告を発したいのだ。
他人に無償で何かを与えるという行為にはすべからく満足感がついてまわる。創刊号で書いた言葉を覚えているであろうか、「絶望をくぐらないところにほんとうの優しさはない」のである。もしほんとうに優しい人間であるならば自分のおこづかいなど全額寄付できるはずである。ある一家がほんとうに貧しい人を救いたいと思うのなら家の収入の二分の一から三分の二は最低でも寄付しなければならない。自分の生活に何の影響も及ぼさない程度にほんの二、三百円募金箱に入れるというのは寄付ではない。それは明らかにショッピングである。“満足”という商品を自分のいい値で買っただけのことである。
何か募金するなといっているみたいであるが、決してそうではない。現実に今こうして僕が書いている間だって確実に餓死している人がいる。アフリカやインドはもちろん、世界各地には食べ物のない人、家のない人、職のない人がいる。国民所得二五四兆四七四〇億の日本国民がこのような人々を救わないのはむしろ罪であるといってもよい。ただ僕は募金箱に十円玉をいれるとき、それしか入れようとしない自分を“恥る”気持ちが必要だと言っているのである。満足感などじょうだんではない。
−3−
これと同じことがボランティア活動にもいえる。
数年前、「小さな親切運動」というのがおこった。この運動を知らない人のために簡単に説明すると例えば車いすに乗っている人が横断歩道をわたれなくて困っていたら気軽にそしてもちろん無償で手伝ってあげましょうというものである。またもう少し最近では「黄色いハンカチ運動」というのもあった。これも「小さな——」と似たようなものである。これらの運動がどのような運命をたどったか——ここには驚くべき事実がある。被救済者がこれを拒否したのだ。「小さな——」などとは「小さな親切大きなお世話」などということがいわれる始末だった。ここに無償の行為の悲劇がある。
つまりこうである。被救済者は自分一人ではできないことを誰かに無償で手伝ってもらったとき、「ありがとうございます」と言ってその人(救済者)に感謝しなければならない、というよりはせずにはいられなくなる。これが一日に何十回もつづけばどうなるだろうか。もちろんその人は無償で一日をすごすことができる。そのかわり、一日中人にぺこぺこしなければならない。これではなんにもならない。金ではない別のもので売買が成立しただけのことである。とてもボランティアではない。これに耐えられない人は決してボランティアなどたのまない。お手伝いさんを金でやとうのである。これは何の気兼ねもいらない。一日中こき使ったって「ありがとう」など言わなくてもよい。被救済者は自分の立場を“お客様”にすることによってむしろパート捜しの奥さまたちの救済者となるのである。僕はむしろこの方が自然なように思える。こうしてはじめて身体障害者その他の人たちは一般の人々と対等の地位につくことになる。
−4−
ボランティアなどという一見理想の社会の奥には金とはちがった人間の様々な利害関係が意識せずともうごめいている。
だからもしみんなの中でボランティア活動をしてみたいという人がいるのなら、一日千円でもいいから、金をもらったほうが、自分のためにも相手のためにもいいと思う。お互い遠慮しない程度の金のうごきがあってこそ“親切”や“優しさ”というものはノーベル平和賞などとれそうもない普通の人にも花ひらくのである。
〜蛇足〜
創刊号といい今回といいどうもへそまがりなことばかり書いているがこれは別に僕がへそまがりだからではない。(多少はあるかもしれないが…)ただ僕はみなさんに物事は、様々な見方、考え方があるということをそしてどちらが正しいかまちがっているかということは一概に言えないということを分かってもらいたいのである。もちろん僕自身自分の主張が一から十まで正しいとは思っていない。蛇足ながらつけくわえておく。
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