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◆高校時代・同人誌「パルセウス」第五号 1988.09◆


ホンネとタテマエ


人間にはホンネとタテマエがある。先日このことで母と口論になった。(といっても口論というほど激しい言い争いではなく、夕食を食べた後の雑談の中で話題になただけであるが…)。思い出しながら書くのでその時の会話がそのままという訳にはいかないが…。

実:「ねぇ、ホンネで生きるのとタテマエで生きるのはどっちが楽かなぁ。」
母:「私はホンネだと思うね。私なんかホンネだけで生きてるもんだから楽で楽で。」
実:「でもさァ、俺も中学ン時はホンネだけで生きてきたけど何か辛かったんだよなァ。好かれる人には好かれたけどさ、一般的にいって『あいつは人の気持ちを考えない奴だ』とか、『思ってることずばずば言うから恐い』とか思われていたんだよね。それでこれじゃあ人づきあいはできないと思って、高校に入ってからは、少しタテマエでものを言うようになったんだ。そしたら誰とでも仲よくできるからすごく楽になったよ。」
母:「でもね。そうやってタテマエで話をして仲よくなったって本来のお前を出していないんだろ?私だったら、そんな相手と話したって時間の無駄だから本でも読んでるけどね。」
実:「そりゃ、母さんはそれでいいかもしれないよ、どーせ人づきあいなんてだんなと二人の子供位のものなんだから。でもね、俺はこれから世の中に出て生きてかなきゃならない人間だよ。イヤな奴とも笑顔で接しなきゃいけない時だってあるんだよ。やっぱりタテマエは必要だよ。」
母:「じゃああんたはそうしなさい。わたしはイヤだね。」

と、冷たく見はなされてしまったのであるが、僕自身こう言っておきながら、実際のところ考えてしまうのである。「ホンネは善でタテマエは悪」という公式は世間一般でも通用していると思われるが、実際にホンネだけで生きている人はまずいないだろう。(いるとしてもうちの母くらいのものだ)「タテマエは必要悪である」という公式は口に出して言わないまでもどこか黙認的なところがある。「ホンネをぶつけて話してみようじゃないか。」などと先生(特定はしていない)がよく言うが、へそまがりな僕は、その言葉が既にタテマエなのではないかと疑ってしまう。

ホンネを言うのは簡単なことではない。他人の人の目を気にせず、あらゆる批難に耐える覚悟のないところに、ホンネなどはあり得ない。人の顔色をうかがっている限り、それは、ホンネに似せたタテマエなのである。僕は決してそれが悪いことなどとは思っていない。みんながホンネを出したら、第三次世界大戦など、とっくに勃発しているだろうし、街の至るところでケンカになっているだろう。世の中タテマエがあるからうまくいってるのである。そういう意味ではタテマエはハトと同様平和の象徴となり得る。するとここでまた一つの公式ができあがる。「タテマエは平和を招き、ホンネは抗争を招く。」これを否定するだけの説明があればお聞きしたいが、たいていの人は賛成してくれると思う。

僕は、タテマエは必要だと思っているし、悪だとも思っていない。ただ問題にしたいのは、「自分でタテマエを言っているつもりのないタテマエ」である。もっと言えば「自分はホンネを言っているつもりのタテマエ」である。「人の能力に序列はない」とか「弱い者いじめをしてはいけない」とか「自分に厳しく他人に甘く」などというのは、たいがいの場合タテマエである。新潟高校に入学したということは、もうそれだけで「人に序列はある」ことを証明し、「弱い者いじめ」をしたようなものである。だからといって、そんなことを言ったら世間に何といってたたかれるかわかったものではない。今だってこれを読んで腹が立つ読者は多数いるだろう。では、いったいどうすればいいのだろうか。

「自覚する」ことだと思う。自分がタテマエを言っているという自覚をもっている限り、その言葉は永遠にタテマエである。ホンネだなどと思ってしまうから偽りが生じるのだ。ただしこれは、注意が必要だ。自分の言っていることがタテマエであるということを相手に悟られないようにすることである。あたかもホンネであるかのように言わねばならない。なぜなら、タテマエであると相手に悟られた時、その言葉の裏を相手に読まれてしまう—つまりホンネで会話したことと同じことになってしまう—からだ。それさえ注意しておけば、世の中笑顔に満ち溢れ、永遠の平和が保たれることであろう。




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