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◆高校時代・同人誌「パルセウス」第六号◆


純粋新潟高校批判


これから新潟高校を主に先生を中心にして批判する。あらかじめ断っておくが、僕は、この学校に対し、自分の学力向上以外のいかなる希望も持っていない。だから、これから書くことの一つとして実現するなどという期待は、していない。ただ二年間この学校で生活して鬱積してきたものを一度この場を借りて放出したいだけであるいわゆる前号で小山君が書いていた「言いたい放題」の文章である。しかし、どんな文章であれそれを載せてくれるのが、この会誌の良いところなのだ。「言いたい放題」と知って敢えて書きたいと思う。

1.体罰について

実際この学校で、社会問題となるような体罰はない。女子の生徒に「え?!うちの学校で体罰なんかあるの?という人がいた。しかし、実際に体罰はあるのだ。少なくとも僕の知っているだけで生徒に暴力をふるう先生は5人はいる。しかし、問題なのはその先生だけではなく、それを黙認する他の先生や、そして生徒(生徒会)である。

体罰は、明らかに法律違反である。非人道的行為といってもよい。僕は、親から「先生に殴られたら、構わないから殴り返しなさい。先生におまえを殴る権利なんてないんだから。」と言われて育てられた。僕は、まだ先生に殴られたことがないので実際にそうするかどうか分からないが、殴られて素直に謝っている生徒を見ると、何故、反抗しないのだろうと思ってしまう。「殴らなければ分からないできの悪い生徒」を批判する者はいても、「殴らなければ教えられない無能な先生」を批判する者は、何故かいない。被害者は生徒、加害者は先生なのに、謝るのはいつだって被害者の生徒なのだ。すると、「殴られるのも辛いだろうが、殴る方は、もっと辛いんだ。」などと、信じている生徒がいる。もし本当にそう思っているならば、いつでも僕の所に来てほしい。僕が思いっきり殴ってあげよう。そして、自分が殴った時と殴られた時で、どちらが辛いか自ら体験してほしいものだ。

ところで、体罰黙認の風潮に、もし歯止めがかけられるとしたら、それは生徒会の力である。例えば、こんな案はどうだろう。生徒会と、各クラスの級長が連絡をとり、今日、どの先生がどういう体罰を何回したかを毎日集計する。ワーストテンなんかもつくる。その結果を週に1回くらいの割合で生徒会室前や廊下や、教務室前に貼り出し、暴力追放を訴える。また、校長先生のところに持って行き、学校の体質改善を要求するなんてのもいいだろう。そうすれば、本校の優秀な先生のことだ、一ヶ月もすれば、この学校から一切の体罰をなくすことができるだろう。

2.挨拶・敬語の強制について

これは、日常茶飯事である。体育の授業なんか始業時の挨拶が一回で済んだことなどほとんどない。挨拶に関する考え方は、人それぞれである。一般に先生は、挨拶を「最低の礼儀」、「けじめ」として強制しているが、僕はそうは思わない。挨拶は一種の習慣だと思っている。つまり、そもそも挨拶は、お互いの意思の疎通をはかる潤滑油的なものであったが、今の学校は、その形式だけが残ってしまったのだろう。先生がどう思って挨拶をしているのか分からないが、少なくとも僕にとって挨拶をした時としない時で授業に臨む態度は、少しも変わらない。それにもかかわらず何故挨拶のやりなおしをするのだろうか?先生は挨拶をやりなおしたことで、お互いの意思の疎通をとり戻したとでも思っているのだろうか?全く笑い話である。僕は二度目の挨拶の時は決して礼などしない。そのことに何の意味も見い出せないからだ。

言葉づかいについては、こんなことがあった。文化祭の時、我がクラスで卓球場をやることにいなり、その時級長だった僕は、(使う予定はなかったのだが)卓球場の使用について、顧問の体育の先生に呼び出された。

保苅「先生、2年2組の級長ですけれども、何か文化祭の卓球台のことでどうたらこうたらあると言われて呼び出されたんですけれども、何でしょうか?」

先生「『どうたらこうたら』とは何だ!それが先生に対する言葉づかいか!そんな言葉は親にだって使っちゃならんのだ!!」

と言って、ひどく怒鳴られた。その瞬間からこの先生を軽蔑するようになったのには理由がある。一つは、この会話をしている間、その先生は見ていたテレビのオリンピック放送から、全く目を離さなかったからである。人と話をする時に、相手の目を見ずに、よその方を向いている人などに、僕は、いかなる会話もしたいとは思わない。これこそまさに「最低の礼儀」の欠如である。この先生は、生徒を人間と思っていないのだとすら、思えてしまった。二つ目に、そんな礼儀すら知らない、まさに僕の軽蔑の対象となる人間が、なんと、自分に対する言葉づかいが悪いといって僕をしかっているのだ。敬語は、決して強制されてつかうものではない。まして会話の常識も知らないような人に敬語など使いたくもなかった。もし、昔の僕——つまりまだこの新潟高校にわずかながら期待をしていたころの僕なら、もしかするとこの時、「じゃあ、先生もテレビなんて見ないでちゃんとこっち向いて話をして下さい。」と言い返していたかもしれない。しかし、この時にはそんな期待は、一切持っていなかった。「あァ、またか。」と思っただけである。(と言うのは僕は体育教官室に入ると、2回に1回は何かを注意されるからだ。もっとも注意をうけなくなった時、僕の僕らしさは、すべて失ったことになるのだが…)そして使える限りの敬語を尽して、その先生に対し謝罪をした。もちろん心の中では毒づいている。「お前が俺を変えることができるのは、俺のほんの表面だけだ。。心の中まで変えることはお前には不可能なんだ。」と。そうとは知らず、その謝罪に満足そうな顔をしている先生を僕は忘れることはないだろう。敬語や、言葉づかいにこだわっているうちは、先生と生徒の意思の疎通は、ますます難しくなっていくのではないだろうか。

授業をしている時、先生と生徒の関係は、確かに師匠と弟子の関係である。しかし、1対1の会話、しかもそこに教育的要素がない場合、二人の関係は、人格対人格、個人対個人、人間対人間の対等な関係であるべきだと思う。一方がいばり、一方がへりくだっていて、どうしてお互いの考え方を理解し合うような会話ができようか。

この先生は、僕にとって二度と会話をかわしたくない先生のうちの一人になった。

3.先生の神格化について

戦後——いや、それ以前から、学校教育は先生という存在にすべて任されてきた。親は子供に「先生にだけは逆らってはならない。」「先生のおっしゃることをよく聞いて、おこられないようにしなさい。」と教えてきた。そんなしつけが親から子へ、その子が親になりその子へと受けつがれていくうちに「先生」という存在が、一人の生身の人間であることを忘れ、言動すべてが厳かである「神」になってしまったのだ。僕の親もそういう教育を受けてきて、いつも先生の目を気にし、先生に気に入られることだけを考えて生きてきたという。そんな自分の前半生を反省し、子供にだけは、そんな風になってほしくないと願って育てたのが、僕、そして僕の姉である。おかげでどちらも随分、反抗的な生徒になってしまった。この文章を読んで、しかめ顔をするのは先生だけではないと思う。生徒のみんなも言い過ぎだと思っていることと思う。しかし、先生だって人間である。正しいこともすれば、間違ったことだってするのだ。先生が間違ったことをした時、それを指摘するのが生徒であることが何故いけないのだろうか?「悪いことを指摘されて、人間は立派になっていく」というのは、よく先生が口にすることばではないか。何故その言葉を自分自身にあてはめようとしないのか。

先生だからえらいというのではなく、人間として立派な人物であるからえらいのだということを先生も、生徒も、親も、再認識する必要があるのではないだろうか。

4.最後に

高等学校というのは、義務教育ではない。学校などいつでもやめることができるし、また先生には生徒を強制的にやめさせる権利がある。だから、もし、僕が前述したことを先生に強制しようとすれば、学校を退学になるのが、おちである。「別に君にこの学校に入ってくれと頼んだ覚えはない。君が希望して入学したんじゃないか。そんなにこの学校のやり方が嫌なら、何故自主退学しないのだ。」と、いわれるだろう。しかし、僕はこの学校をやめる気はない。何故なら最初に書いたように、1年後に大学入試があるからだ。

道徳的、倫理的に先生がどうであれ、それぞれの学科では、間違いなく僕は先生にかなわない。(もっとも五教科総合ならば僕にかなう先生はいないと思うが…)この学校に在籍していなければ、希望の大学へはとても入れないのだ。つまり、僕にとっての新潟高校はいわば大学予備校である。そして、自分の学力向上が、この学校に期待する唯一のものなのだ。

これが憂うべき事態なのかどうかは別にして、このように割り切った後の学校での生活が、非常に楽になったというのは、事実である。




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