アボリジニの大地




第九回:儀式に参加する (下) : 掲載コラム(2003.08.12)


アボリジニ社会は伝統的には衣類を着用しなかったが、現在はほとんどの人が服を着て暮らしている。しかし、儀式によっては全裸になることがある。当然僕も全裸で参加する。若者たちにからかわれながら、身体に赤色土や白色土で模様をほどしてもらい、日暮れから明け方まで踊りあかす。それが数週間続くこともある。そんなときは、儀式会場からほとんど離れることがない。一ヶ月近く水浴びひとつできずに、野外でのキャンプ。皮膚は装飾用の赤土と汗とほこりでガリガリになる。頭皮は最初の一週間ばかりかゆかったが、その後は何も感じなくなった。毎日、毎晩、歌いどおし踊りどおしなのだ。疲労困憊して、かゆさなどもはやどうでもよくなる。

男女が共同で行ない一般公開される儀式に、一〇歳前後の少年を青年にする儀式がある。子供を母親の世界から引き離すまでの最初の数日が男女合同で行なわれ、成人男性の世界へと迎え入れる後半は男性だけの秘密の儀式となる。女性たちの嘆きと見送りの踊りが披露された後、その日の夜は、一晩中男たちが歌い続け女たちが踊り続けるお祭り騒ぎとなる。村人全員が参加して少年たちの大人への船出を祝う。

翌日に、少年たちは長老から世界の成り立ちについての最初の教えを受けることになる。その具体的な内容を公表することは許されていない。重要なのは、かれらが分け入る世界の広がり、受けとる責任の重さだ。日本でも成人式はある。成人を迎えると、大人として社会的責任を果たすことが期待される。だが、「世界」や「宇宙」にたいする責任はどうか。アボリジニ社会では、成人儀礼を通過するということは、たんに社会的責任を果たす大人になるというだけではなく、世界の存立を支える神秘に自分を関わらせてゆくことを意味する。つまり、日常的な社会生活を超えでて、より巨大な宇宙的神秘に出会う機会と責任を引き受けることになるのだ。

「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」

芭蕉は、どんな宇宙感覚でこの句を詠んだのだろう。人はどこかで、家族や世間との日常生活だけに埋没しきれない切実さをもっている。宗教が形骸化し、そうでなければカルト化してしまう現在の日本で、僕たちが宇宙とのつながりに想いを馳せる機会は失われてしまったのだろうか。死者を想い、この世のものならざる力を恐れ、時空を超えた広がりへと身を預ける場を、人はもはや必要としないのだろうか。近代的で合理的な人間は、そんな怪しげな感性などなくても、面白おかしく人生を歩むことができるというのか。宗教性が取り返しのつかないほどに廃れた時代に、僕たちはいかにして、静かに充足した奥深い生を歩むことができるのだろう。これは、現代社会が抱える大きな課題であるように思う。

いつの日か子供ができて、その子がお墓参りの最中に、「これは生きている人間の自己満足だ」と言ったら、僕はどう応えるだろう。「確かにそうかもしれない。でも、本当にそれだけなんだろうかね。」そんなふうに話して、我が子をオーストラリアの大地に連れ出そう。



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