Tributes

HOME : Tribute Index



The Memorial Service for Minoru Hokari
in the Joyce Chapel,
at the Fawkner Crematorium and Memorial Park, Australia

(2004.05.12)




■ テッサ・モーリス=鈴木

2002年の年末、私はミノの他の数人の友人と共に、南海岸へ行ったのですが、ある日、私達は静かな美しい浜辺を散歩しながら話をしました。私はその浜辺を「森の浜辺」と呼んでいますが、実際の名前は知りません。私達はいろいろなことを話し合いました。経済学は実世界と何の関係もないように思われることについて、人種差別について、そして革新的な、エキサイティングなアイディアを世の中にもたらす、新しい世代の学者が求められることについて。私はその夜、ミノはなんて貴重な友達なのだろう、と思いました。きっと他にも、そう思ったことがある人は多いのではないでしょうか。ここ2、3週間、私はオーストラリア国立大学でどれだけ数多くの人がミノを知っていたか、そして彼を慕い、彼の影響を受けていたかを初めて知り、驚いています。彼が面識があったとは私は想像もしていなかったあらゆる人達が、彼の容態について聞き、心配していました。私は驚き、また同時に、考えてみれば然程驚くべきことでもないことに気が付きました。というのも、ミノはそういう人だったからです。彼は隅にひっそりと咲く日陰の花ではありませんでした。誰もが彼の存在に気付かないわけには行かず、そして彼の存在は周りに影響を与えないわけには行かない、そんな人でした。

では、ここ1、2日届いた電子メールから、4本のメールからの抜粋を読みたいと思います。(* 以下4名のメッセージ、内容は略す)

オーストラリア国立大学教授 アン・カーソイズ
ジョージタウン大学、客員兼任教授 ジョン・ドッカー
一橋大学教授、伊豫谷登士翁
東京大学社会情報研究所教授、姜尚中

次の世代の学者について話し合ったあの日、私達は、革新的なアイディアを打ち出して世界を一世風靡するのはミノとのその仲間達の仕事だ、との結論に達しました。冗談半分でしたが、半分は本気でした。最終的にはミノ自身がアイディアを発展させる時間はあまりにも限られていましたが、彼は極めて重要な功績を残して行きました。彼が打ち出した歴史実践への新しいアプローチは、これから長年に渡って、他の学者等の視野を広げ、新しい思考を促していくでしょう。そして何よりも、これは一つには彼自身のパーソナリティの結果だと思うのですが、一つにはアボリジニの人々と共に暮らした経験から、ミノは多くの人が忘れてしまっていたことを思い出させてくれました。それは、世界は、そして宇宙は広く、素晴らしく、神秘的なものであり、私達はまだ、そのほんの僅かしか理解していない、ということです。来月出版される著書の中で彼が描き出す世界は、畏敬の念を起こさせる壮大な世界です。私達の好奇心をそそり、想像力を掻き立てる世界です。同時に、厳粛な世界ではなく、笑いに溢れた世界でもあります。ミノの宇宙の、まだ知られざる世界に存在する精霊達や生命の精気は、如何に強力で神秘的であっても、ユーモアのセンスを持っていることは間違いないでしょう。

(日本語で) 実さんのお母さんとお父さんとお姉さんは、如何に実さんを愛したか、私がこの数ヵ月間、強く感じてきました。その愛情は、実さんの素晴らしいパーソナリティにもはっきり反映されました。実さんは遠い国に行って、自分の道を探さなければならなかったのです。しかし、自分の道を探しながらも、ご家族から受けた愛の気持ちを持って、それを自分のものにしました。その結果として、彼はあんなに素晴らしい人になって、あそこまで周りの多くの人々に影響を与えることができました。実さんと付き合いがあった人達の生活は、実さんの影響によって、変化させられました。今まで見えなかったこの世界、或いはこの宇宙の美しさと可能性は、実さんの影響によって見えてきました。それから多くの実さんに一度も会っていない人達も、彼の本を読んで、これからその影響を受けます。その意味では、実さんがご家族から受けた愛情は、彼を通じて本当に多くの人々に届きます。結局、その愛情は世界中に広がると私は強く感じています。

(英語で)最後に、ディラン・トーマスの詩「そして死は支配を止めるだろう」を朗読したいと思います。めそめそした、センチメンタルな詩ではありません。むしろ、果敢な立ち向かっていく内容の詩です。苦しみと死への抵抗と勇気がテーマですが、同時に、生きることの素晴らしさを詠った詩でもあるので、ここで読むのに相応しいと思ったのです。

(日本語で)最後に、あの、ウェールスの詩人のディラン・トーマスの言葉を読みたいです。このタイトルは日本語で「そして死は支配を止めるでしょう」です。

And Death Shall Have No Dominion

And death shall have no dominion.
Dead men naked they shall be one
With the man in the wind and the west moon;
When their bones are picked clean and the clean bones gone,
They shall have stars at elbow and foot;
Though they go mad they shall be sane,
Though they sink through the sea they shall rise again;
Though lovers be lost love shall not;

And death shall have no dominion.

And death shall have no dominion.
Under the windings of the sea
They lying long shall not die windily;
Twisting on racks when sinews give way,
Strapped to a wheel, yet they shall not break;
Faith in their hands shall snap in two,
And the unicorn evils run them through;
Split all ends up they shan't crack;
And death shall have no dominion.

And death shall have no dominion.
No more may gulls cry at their ears
Or waves break loud on the seashores;
Where blew a flower may a flower no more
Lift its head to the blows of the rain;
Through they be mad and dead as nails,
Heads of the characters hammer through daisies;
Break in the sun till the sun breaks down,
And death shall have no dominion.


■ スティーブ・ウェッブ

ミノとの付き合いは7年程度です。初めて会ったのはニューサウスウェールズ大学のインターナショナル・ハウスで、私は役員会のメンバーとして晩餐会に出席したところでした。当時、娘のフィリッパが文化交流相手として日本人の学生を探していました。つまり彼女が日本語の勉強を見て貰い、代わりにその日本人学生の英語を見る、というわけです。彼女は大学でかなり進んだレベルの日本語を学んでおり、それまでの相手では物足りなくなっていたのです。そこで私は、インターナショナルハウスには日本人学生が何人かいたので、館長さんに相談したのです。「誰に頼めば一番良いだろうか?」と聞くと、彼は躊躇せず、「ミノです。ミノに頼むべきです」と答えました。「どの学生がミノなのか、どうすれば分かるでしょう」と言うと、彼は「すぐに分かりますよ。背が高くて、沢山の人に囲まれてよく喋っているのが彼です」と言います。実際、中庭へ出てみると、誰がミノなのか、一目瞭然でした。

そこで私は歩み寄り、暫く彼等の傍に立っていると、彼の注意を引くことができました。彼は若者達の会話の中心だったので、私との話には興味ないのではないかと思っていたのですが、彼はグループを離れて私のところにやって来て、話を聞いてくれました。そして、すぐに娘とのやり取りを承知してくれたのです。その後間もなく連絡を取ったわけですが、最初は娘が一方的に得をしたような形でした。彼女は日本語の勉強で悪戦苦闘しており、彼が補習をしてくれたのですから。しかし、その後ミノが博士論文を書き始めると、一章書き上げる毎にピップに見せるようになりました。彼女がここにいた時は簡単でしたが、アメリカに渡ってからも電子メールで連絡を取り合い、二人は友情を深めて行きました。ミノの死に、娘は深い悲嘆に打ちひしがれています…。

ミノは何回か我が家に泊まったりして、親しくしてくれました。私自身が彼を最も良く知ることができたのはここ1年程で、かなりの時間を共に過ごすことができました。私達は皆、本当に惜しい人を亡くしました。彼は1年程前、否、昨年の初めが最後だったと思いますが、ピップの帰国と同じ時期に我が家に来ました。娘は今ニューヨークに住んでいるのですが、一週間程帰国した時に偶然、ミノからその数日前に「2、3日泊まりに行って良いですか」との電子メールが届いたのです。それで彼の滞在はピップと2、3日重なったのですが、夜、二人で話し合っていたのを憶えています。二人は夜遅くまで、実に様々なこと、例えばアボリジニの問題、政治、歴史、そして日本、オーストラリア、アボリジニ・コミュニティの間の人種的な違いなどについて、議論していました。またピップが子供の頃、私はノーザン・テリトリー準州のセントラル・バンク・カウンシルの仕事をしており、彼女も私に同行してアボリジニの人々と一週間程過ごしたので、ある程度の知識はありました。それも、彼女とミノの結び付きを深めるきっかけとなったのだと思います。そして昨年、ミノがアデレードの病院を退院した時も、ピップが帰国していたので、ピップとアナベルと三人で見舞いに行き、できる限りのことをしました。

ミノの思い出の一つとして、これは小さな、つまらないことと思われるかもしれませんが、彼が私達に紹介してくれた日常生活的なことの一つに、ほうじ茶があります。皆さん、ほうじ茶を飲んだことがあると思いますが、世界一美味しいほうじ茶は新潟産なのです。我が家では新潟産のほうじ茶を切らすことがなく、ほうじ茶を飲む度にミノのことを思ってきました。これからもほうじ茶を飲む度に、ミノに思いを寄せ続けるでしょう。

ところで、過去1年間でミノと最も心が通じたのは恐らく、11月にメルボルンに見舞いに行った時のことで、彼の容態は当時、比較的良い方でした。ワールドカップの準決勝戦にニュージーランドが進出した時でした。私はニュージーランド出身です。普段は隠していますが、ここに30年以上住んでいるにも拘らず、ニュージーランド人であり、サッカーとなるとかなり愛国主義者になってしまいます。それ以外の時はあまり表に出さないように努めていますが。それで、ミノの部屋には残念ながらテレビがなく、借りようとしたのですがそれもできませんでした。でもラジオをつけて、ボリュームを一杯に引き上げて、試合の中継を一緒に聴いたのですが、勿論、皆さんご存じの通り、ニュージーランドは負けました。ミノは私が何故あそこまで嘆き悲しむのか、全く分からない様子で、重い病と闘っているのは彼の方なのに、彼が私を慰めてくれたのでした。

最後に、娘のピップが(ミノの死を知った)最初の日に送ってきたメールから少し抜粋して読ませて貰います。先ずこれは、彼女がミノ宛てに最近送ったメールからの引用です。「エール大学院卒業後取るべき道について考える上で、人生の指針の一つとなるのはあなたの生き方です。私は世の中のためになる、最大限の貢献のできる生き方を目指します。あなたは私に、自分が持っている固有の能力を見出し、それを駆使して、私達の住む世界の改善に努めることを教えてくれました」そして次に、彼女が家族に宛てたメールから:「ミノはこれからも私の人生の指針であり続けます。その勇気と、親切さと、洞察力豊かな論文によって、様々な人々が胸を打たれ、彼の精神はこれからもそうした人達を通じて生き続けるでしょう。彼は世の中にそれは素晴らしい貢献を残し、そのポジティブな影響は今後も引き継がれて行きます」ありがとうございました。


■ デボラ・ローズ、ダレル・ルイス、シャンタル・ジャクソン

ミノに寄せて (翻訳:塩原良和)

わたしたちが最初にミノに出会ったのは、ダーウィンでした。1996年のことです。ミノは、フィールドワークについてのアドバイスを求めて、わたしたちに会いにきました。ミノは、自分がグリンジ・カントリーに行きたいのだということを、そのときにはもう自覚していました。わたしたちは、喜んで彼に助言し、手助けし、彼を導きました。そう、ブッシュ用の寝具も、彼にあげましたっけ。

ミノは、その年のクリスマスを、わたしたちといっしょにダーウィンで過ごしました。いっしょに七面鳥を食べて、プレゼントを交換し、熱帯地域でクリスマスをやってみるという楽しい試みをしました。そのときからミノは、わたしたちと毎年のようにクリスマスを過ごしてきました。忘れられないある年のクリスマス、キャンベラで、ミノはオーストラリアの民族音楽について質問しました。そしてわたしたちは、素晴らしい午後を過ごしました。ダレルがブッシュ詩歌を暗誦して、バラッドを歌ってくれたのです。ミノがいない昨年のクリスマスは、ほんとうに物足りないものでした。わたしたちは、とてもミノが恋しかった。長い年月のあいだに、ミノは家族の一員になっていました。わたしたちが飼っているブルーヒーラー[牧羊犬]は、よその人が嫌いなのですが、その犬でさえ、ミノにはなついていました。 わたしたちがキャンベラに引っ越してきたとき、ミノは新居のペンキ塗りを手伝ってくれました。菜園をつくると、ミノはいっしょに、収穫されたとうもろこしを食べてくれました。

わたしたちは、ブッシュのただなかに滞在しているミノを訪ねました。そして、彼がアボリジニの教師とともにいるところを見ました。ミノは、アボリジニの人々とのあいだにすばらしい信頼関係を築いていて、アボリジニの人々は、ミノがとてもよい仕事をしていると言っていました。何年ものあいだ、わたしたちは彼がブッシュに行く準備を手伝い、アドバイスをしてきました。もしも危険な旅に出るときには、誰かに電話してそのことを告げ、どのくらい旅に出ているかを伝えること、そして、帰ってきたらまた電話すること、というものがそのひとつでした。そうすれば、もしも彼が2度めの電話をかけてこなかったら、友人は心配になり、助けをよこすからです。ミノが電話してきて、これからダンガルーからドッカー・リバーに向けて、ブッシュの道を進んでいくと言ってきたときのことを、わたしたちはいつまでも覚えていることでしょう。その後何日間も、彼からの電話はありませんでした。ミノは電話をするのを忘れているのではないかと、わたしたちは心配になりました。そして、ミノから電話があり、彼の冒険が困難で、挑戦的な旅であったことを話してくれました。わたしたちはほんとうに、彼の勇気と、冒険のセンスを称賛したものでした。

ミノの主な教師であった、そしてわたしたちにとっても古い友達だった、ジミーじいさんが亡くなったとき、わたしたちはミノとともに、その喪失を分かちあいました。

わたしたちはミノについての多くのことを楽しく思い、称賛しました。彼のエネルギー。熱意。ユーモアのセンス。好奇心。アボリジニの人々への、明らかな尊敬。友人をつくる能力。冒険のセンス。そして最後に、病気に直面したときの、彼の勇気。シャンタルのために、ミノは笑い声と、良い音楽と、困難な時における魂の光明をもたらしてくれました。 ティンバー・クリークやダンガルーで、ミノといっしょに過ごしたキャンプの思い出は、わたしたちの宝物です。美しい月の光に満ちた夜、ティンバー・クリークの丘の上で、わたしたちはミノと一夜を過ごしました。お話を語り、歌をうたい、笑い、ジョークを言いながら。たぶん、ミノがほんとうにオーストラリアを——そこに暮らす人々と、カントリーを、愛しているのだと、わたしたちが気づきはじめたのは、そのときです。

わたしたちは、ミノが学問的に成功したときの興奮を分かちあいました。彼の研究計画をきき、彼がオーストラリアの永住権を取得したときの興奮を。ミノは光栄にも、デビーの著書である『生命の大地』を邦訳してくれました。日本の読者がデビーの言葉と思考を読むことができるということに、わたしたち一同は感謝しています。

わたしたちは、ミノの両親にお会いし、自宅にお招きすることができたことを、うれしく思っています。ミノとそのすばらしいご両親といっしょに、ロースト・ラムをいただいた晩餐の思い出は、デビーとシャンタルの宝物です。

ミノは、オーストラリアにやってきて、オーストラリアを愛し、研究や英語・日本語の著作でオーストラリアに貢献しました。その著作は、この国の財産として受け継がれていくことでしょう。彼の仕事は革新的で、たいへんに将来有望なものでした。

ミノが亡くなったことは、彼のご家族や、わたしたち同様に彼とすぐに仲良くなったすべての友人にとっての喪失であるとともに、オーストラリアにとっての喪失でもあります。

わたしたちの心は、今日このとき、みなさまとともにあります。ですから、わたしたちもまた、このすばらいい若者に、みなさまとともに、さよならを言いたいと思います。

キャンベラにて、2004年6月


■ グレッグ・デニング

一言だけ追悼の言葉を送ります。そしてこれまでいろいろな思いを分かち合ってくれた人達に、感謝の意を表します。大学を代表して、シカゴ大学のディペッシュ・チャクラバルティ教授に代わって、文化研究所、及び人文学研究所を代表して、一言述べたいのは、この若者が如何に素晴らしい学者であったか、そして彼の研究が如何に革新的であったか、です。彼の研究は必ず、クロス・カルチュラルな歴史実践を変えるでしょう。彼の博士論文研究に関して、最も重要な思い出として私の印象に残っているのは、グリンジの人々が博士論文を承認するまで、大学に提出するのを拒んだことです。彼は大きな賭けに出たのです。自分の人生を、博士号の取得を、博士論文を先ず彼等が承認することに賭けたのです。そして私達は、彼の人生をありがたく思う気持ちで一杯です。あまりにも短かった命でしたが。そして慰めと強さを私達に与えてくれた彼に感謝します。


■ 母・保苅桂子

母として、実が現代医学に見放されて、ホスピス病院に移ってからの様子をお伝えしたいと思います。

彼の病院での生活は本当に立派でした。どのような厳しい宣告にも、決して絶望することも悲しむこともなく、気功や瞑想を積極的に取り入れて、心の平静を保ち続けました。彼は自分を修行僧と称していました。凡人は苦しみから逃れるけど、僕は行者だから苦しみの中に活路を見出すのだ、といつも言っていました。どんな苦しみも、それを克服することが自分の人間性を一層深めることに繋がると、前向きに病と取り組む姿勢は、多くの病院の医師や看護婦さん達を感動させ続けました。

彼がもしこの病を克服し、生き延びることができたなら、何らかの形で多くの人々に救いとなる生き方を示したことと思い、彼の命の短さが、唯々惜しまれてなりません。

彼は望み通り、最期まで清明な頭脳を維持し、モルヒネを求めるナースボタンを自分で押して、最後を迎えました。

ある人が悲しむ私を励まして、「彼は光の中に、風の中にあって、空気のようにあなたの傍にいてくれますよ」と言ってくれました。皆様もどうぞ、光の中に、風の中に彼を感じ取り、いつまでも忘れないでやってください。

彼は皆様の励ましから、大きな力を得ていました。そして、心から感謝しておりました。彼に代わって、心より御礼を申し上げます。本当に本当に長い間、ありがとうございました。


■ 父・保苅信男

一言、お礼を述べさせて頂きます。本日は、遠いところ、ご参列頂きまして、本当にありがとうございました。また、ただいまは実のために送別の言葉を沢山頂きまして、重ねて御礼申し上げます。

彼は、日本の小説家の司馬遼太郎が言っていた言葉、「40代は充実した年代だった」ということをよくベッドの上で話していたのですが、「40代は僕も生きたい年代だねえ、生きていたいねえ」ということを、司馬遼太郎の言葉に思いを馳せて、よくベッドの上で言っておりました。

その言葉がいつの間にやら、私達親子三人の病院での合言葉のようになりまして、 キーモ治療が非常に副作用が厳しくて苦しい時にも、「40代を生きようや」という言葉で励まし、彼もその言葉に勇気付けられて、キーモ治療を続行し、寛解を迎えたということでございます。

32歳での夭折は、運命の厳しさを痛感させられるわけでございます。この運命の厳しさに対しては、慙愧に耐えません。

今後は彼との9ヵ月の看護の生活ですか、これを良き思い出としまして、我々夫婦の生活の支えにしていきたい、というふうに思っております。本日は大変どうもありがとうございました。




info@hokariminoru.org

Copyright © 2004-  Yuki Hokari S., All rights reserved.