Tributes

HOME : Tribute Index



保苅実氏(1971〜2004)


オーストラリア先住民の歴史研究における最も優秀で斬新な学者のひとりだった保苅実博士の死という悲劇によって、我々の研究分野が失ったものは実に大きい。友人の間では「ミノ」と呼び親しまれた彼は、冒険心と想像性豊かな知性、そして柔軟で想像力あふれるスタイルを兼ね備えていた。一橋大学で経済学を学んでいた当時、彼はオーストラリア先住民の人々と共に暮らすことを夢見ており、後にその夢を叶えられたことに大いに満足していた。1996年に完成させた修士論文は、「アボリジニ部族経済と牧場労働:先住民の経済史」という、ビジネス志向の強い一流大学の一橋では珍しいテーマのものだった。

保苅氏は先住民と直接接することで研究を深めようと、名のある奨学金を得てオーストラリアに留学した。彼は若い時からその優秀さを認められ、1991年には一橋大学の如水会から海外留学奨学金、1994年には日本育英会から第一種奨学金を賞与された。続いて1996年にはロータリー財団の国際親善奨学金、更には日本学術振興会から特別研究員としての奨学金を授与された。両親は彼が夢を追うのを決して妨げようとせず、研究を続けられるよう、コンピュータその他の実用的な援助をしてくれた、と彼は話していた。保苅氏はニューサウスウェールズ大学で博士課程の研究を始め、オーストラリア国立大学の歴史学科とクロス・カルチュラル・スタディーズ科(Centre for Cross-cultural Research)に二重所属中の2001年1月、「クロス・カルチュラライジング・ヒストリー—グリンジの歴史実践への旅」と題する博士論文を完成させた。両親も彼の博士号取得を祝いにキャンベラまで駆けつけた。

保苅氏はグリンジの人々と共に暮らし、たゆまぬ努力を通じて研究を究めた結果、彼らの歴史物語を理解する上で斬新な発見を重ねた。彼はグリンジの人々を通じて自分の夢が叶えられたことに、常に感嘆していた。というのも、先住民の師たちから学ぶという経験を得たことを、何にも代えがたい名誉と考えていたのだ。グリンジの人々は、彼がフィールドワークに使う交通手段に笑わずにはいられなかった。最初は大地の遥か向こうからちっぽけなバイクに乗って現れたかと思うと、次の機会にはオレンジ色の、「パンプキン」と名付けた4WDのランドクルーザーで乗り付けた。

ひとりの幾分反抗的な青年として、保苅氏は日本社会から期待される典型的な人生設計を逃れる機会を歓迎した。才能ある若者として、彼はいずれ経済学者かビジネスマンとなる人生を歩んでいることを意識していた。しかし、まもなくそうした分野で財を成すよりも、砂漠の荒野に腰を下ろし、グリンジの師たちの言葉に尊敬の念を持って耳を傾け、彼らの言語を学び、長老たちと対等な立場で協働しあう、もっと自分らしい生き方を選んだのである。保苅氏は彼ら先住民たちを「歴史家仲間」と呼び、進んでオーストラリア北部の遠隔地で長期間、極めて素朴な環境で彼らと共に暮らした。宗教的信条を求めていたのではなく、むしろそれには懐疑的でさえあった保苅氏だが、グリンジの人々の儀式に招待され、権威ある哲学者や歴史家たちに教え導かれることに胸を躍らせた。

保苅氏の恩師のひとりは、親愛の情を込めて「ジミー爺さん」と呼ばれていた。彼は博士論文が完成する前にこの世を去ったが、保苅氏は極めて進行の速い悪性リンパ腫との闘病生活中、度々、彼にとって「一番の」先生だったこの老人の写真を見つめていた。彼自身が自分の使命の奥深さを理解する前から全てを知っていたように思われた、グリンジの老人の写真を。グリンジの人々は、保苅実という日本人の若者を喜んで迎え入れた。彼らは保苅氏がグリンジの言い伝えやメッセージを日本へ、そしてその他のアジア諸国へ広めるように、グリンジ・カントリーが呼び寄せたのだ、と彼に説明した。

オーストラリアに留学したての頃は英語力が限られていた保苅氏だが、間違いを指摘されると自ら笑うだけでなく、大いに笑い転げる、そんな青年だった。彼は出会う人を皆、魅了した。ユーモアのセンスと冒険心を持っていた彼は、権威ある学者らであろうと先住民の学生であろうと、グリンジの長老たちであろうと、どんな人々の間でも、誰にでも好かれる人気者だった。保苅氏は誠実で、良心的で、あらゆる人や経験や文化に心を開き、歴史学に真剣に打ち込んでいた。彼が深く敬愛していたグレッグ・デニング博士は、彼のことを「ハンサム」で「立派な青年」と呼んでいる。

私は保苅氏の博士論文過程を通じて彼の指導教授であったことを大変名誉に思っている。(オーストラリア国立大学・資源環境研究所の専任研究員である)デボラ・バード・ローズ、オーストラリア国立大学のアン・カーソイズ教授、そしてその他数多くの人々が彼の学者としての成長に貢献した。博士論文を絶賛する査読報告を読んだ時の彼の喜びと興奮振りは、一生忘れられないだろう。声は上擦り、同時に、彼は世界全体を思い切り抱きしめたいかのようだった。

保苅氏はファンクその他の様々なライヴ・ミュージックについても情熱的だった。オーストラリア国立大学のクロス・カルチュラル・スタディーズ科での彼のワークショップ仲間たちの間では、彼は「クール」で、もしかしたら「誰よりもクール」かもしれない、という評判だった。保苅氏には垢抜けたスタイルと、肌に感じられるような生きる喜びとを持っていた。ニューサウスウェールズ大学のインターナショナル・ハウスの他の学生たちは、日本語の勉強を見て貰い、また友人として彼を慕っていた。インターナショナル・ハウスは保苅実記念奨学金制度を設立している。保苅氏はオーストラリア国立大学で博士号取得後、日本人留学生のメンターとなることを快く引き受けた。オーストラリアにも日本にも友人が多く、友情を大切にする人だった。彼は闘病生活の最後の1年間、姉の由紀さんの細やかな努力を通じて、数多い友人たちに、温かくそして詩的に感謝の意を表した。

保苅氏は実に多様なコンファレンスやプログラムの企画に携わった。日本では1991年のAll Japan University Business Strategy Conference、2002年の『多民族・多文化社会日本をめざして』に焦点を当てた「歴史の限界と多文化主義—『歴史』をめぐるアボリジニとの対話」(市民外交センター20周年記念シンポジウム)などを、そしてキャンベラのオーストラリア国立大学・人文学研究所では"Locations of Spirituality: 'Experiences' and 'Writings' of the Sacred")などを企画した。彼は通訳として、また、数々の論文の翻訳者として、コンファレンス参加者や読者の日本語と英語との間の橋渡しをした。また、ダグラグ村のコミュニティ・ガバメント・カウンシルに歴史コンサルタントとしての支援を求められた。更に、朝日新聞のリサーチ・アシスタントを務めた他、編集担当者兼リサーチ・コンサルタント兼通訳として、国立歴史民俗博物館、観奉館、オーストラリア国立博物館、そしてキャンベラのキャロライン・ターナー教授のために奔走した。彼の研究領域は、歴史学、自然学、博物館向けの先住民美術の研究から、釜煎りにされたと言われる大盗賊、石川五右衛門のポップカルチャー的な人気まで、実に多岐にわたるものだった。

保苅氏の論文やエッセイはオーストラリアでも日本でも重宝された。彼は博士論文を書き上げてから僅か数年の間に、日本語、英語の両方で指折りの学界誌に多数の研究論文などを発表した。そのテーマはグリンジの歴史実践のモード、アンチ・マイノリティ・ヒストリー、先住民との和解、そしてオーラル・ヒストリーの読み方から、「身体の記憶と場所の記憶が接触するその瞬間にその場で生じる歴史」まで、広範に及んだ。彼の文章は明確で単刀直入であると同時に、誌的な要素、そして優しさと賢明さを含み、このため深く心を打つものがあった。彼はエネルギッシュに次から次へと論文を発表し、現時点でも幾つかの記事が掲載の過程にある。また、彼自身はセオリーを敬遠したものの、保苅氏の研究論文のセオリー的な洞察力は度々賞讃された。

保苅氏はオーストラリアの永住権を持ち、オーストラリア、日本の両国で想像性豊かな研究論文を発表しているが、この度彼の最初の単著「ラディカル・オーラル・ヒストリー—オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践」が御茶の水書房から2004年に公刊され、世界中でも先ず日本語で読まれたことは、極めて重要な意味を持つ。同書は、誠実さと想像力にあふれる、そしてはっとする程大胆な、遊び心豊かで奇抜な著作である。また、これとは幾らか異なる、博士論文の研究に基づく英語での著作も、出版を待つばかりである。

自分の夢を実現させ、グリンジの人々の歴史を日本へ伝えるという使命を果たすことを決意した保苅氏は、最後まで誠実に、正に亡くなる数日前まで執筆活動を続けた。彼はオーストラリアに留まって治療を受けることを選び、両親は新潟から、姉の由紀さんはニューヨークから幾度も長旅を重ねて彼を見舞い、看病に努めた。保苅氏はメルボルン・フィッツロイの聖ヴィンセント・ホスピスで、32歳の若さで息を引き取った。

保苅氏は幾つもの言語を越えて、幾つもの文化を越えて、そして様々な歴史の流れを越えて、対話する術を学んだ。日本語と英語にくわえて、彼はダグラグ村の人々が話すグンビン(Ngumpin)言語グループの基礎的な知識もあった。

それでも彼は、戯れのセンスを、そして謙虚さを決して失わなかった。ここに彼の博士論文の最後の一説を引用させてもらう。

僕はこれまで、読者の皆さんに宛てて長い手紙を書いてきたように感じている。僕はこの論文を通じて、クロス・カルチュラルな実践を行うことがいかに挑戦的で、しかし同時にいかに楽しいものであるかを、皆さんと分かち合いたかった。また、「ギャップ越しのコミュニケーション」が、いかに不可能に見えてもやはり可能なのだということを伝えたかった。そして何よりも、グリンジ・カントリーからの教えを皆さんと分かち合うことができたなら、と思っている。今、僕はこの長い手紙を投函する。この論文が僕の手を離れて、読者の手に渡る時、(僕が尊敬してやまない歴史学者グレグ・デニングの言葉を借りれば)「この瞬間、書き手は弱い立場に立たされる。」

読者がグリンジの歴史的現実のフレームワークを完全に受け入れるか(それが可能であると考えるなら)、或いはきっぱりと拒絶するかは、読者次第である。もうひとつの選択肢は、僕がこの論文を通じて試みてきたように、「クロス・カルチュラル」である方法を見出そうとすることである。僕は、クロス・カルチュラルな実践を行うということは、その定義上、自らの文化的な枠組みを揺るがすリスクを免れない、と信じている。そうでなければ、どうしてそれを「クロス・カルチュラル」と呼ぶことができるだろう。

さて、僕もこうして、一枚の花弁を投げ込むことができた。
ゆっくりと爆発を待とうではないですか。



保苅実記念奨学基金

オーストラリア国立大学は、オーストラリア先住民アボリジニ史研究に関連したフィールドワーク調査及び研究に携わる大学院生を支援する奨学基金、「保苅実記念奨学基金」を設立した。寄付に関する詳細については、以下まで。

アン・マックグラス教授
電子メールアドレス:ann.mcgrath@anu.edu.au
ホームページ:www.hokariminoru.org/e/scholarship-e/scholarship-e.html

保苅氏の姉の由紀さんが、ホームページwww.hokariminoru.orgで寄付申込書その他の詳細内容を掲載している。1回目の奨学金は、2005年7月の故人の誕生日前後に支給される予定。



info@hokariminoru.org

Copyright © 2004-  Yuki Hokari S., All rights reserved.